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投稿:2019年03月18日更新:2022年12月06日

多職種連携・地域連携 いわき医療偉人

535. この道をゆく・大河内一郎伝記⑨~障害児者の友として

いわき市平(当時の平市)の肢体不自由児施設「福島整肢療護園」創設者の医師・大河内一郎氏(享年79)は、資金繰りの苦難を乗り越えて充実した日々を送る。後継者の長男・凱男(ときお)氏が医師となって帰郷し、障がい児支援の未来図を心に描き胸躍らせた。だがこの絶頂期に大河内氏は病に倒れた。「障がい児の気持ちがやっと分かった」と逆境に屈せずリハビリを続ける中、さらなる信じられない悲劇が追い打ちを掛ける。眼光は鋭さを失い、心身ボロボロになった「人間機関車」は悲しみの淵に落ちた。それでも施設の後継者を探そうと脚を引きずり、最後の闘志を振り絞る。「障がい児者の友として」生きた大河内氏に迫る不定期連載の9回目。(「地域連携・企画広報課」・西山将弘)

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↑大河内氏が安らかに眠っている「シオンの丘」。平市街地が一望でき、この日は鉛色の雨雲の向こうから光が輝いていた=2019年3月13日、いわき市平赤井のキリスト教共同墓地

● 期待を背負った長男帰郷
大河内氏は1961(昭和三十六)年秋、平地区で営んでいた整形外科の大河内医院を発展させた大河内病院を内郷に開く。重度脳性まひ者のためにこの病院を外来機関とし、療護園を療育・生活の場にしたいと考えていた。その病院の後継者は凱男氏。整形外科では脳性まひ児に十分な治療ができないと、慶応大普通部に在籍していた凱男氏を北海道大医学部脳外科に進学させた。開院から12年後の1973(昭和四十八)年1月。期待を一身に背負った凱男氏が帰郷した。大河内氏は絶頂期を迎える。「身体障害児童福祉民間施設『福島整肢療護園』を設立して二十年、苦しかった時代も過ぎ、大河内病院の建て直しにも着手し、東京の療育センターに勤務していた一人息子の凱男を副院長に迎えて、あとは落成の日を待つばかりとなり、多忙ではあったが充実した日々を私は満喫していた」(「詩集 シオンの丘」昭和52年発行)

● 大河内氏 リハビリ生活始まる
凱男氏の帰郷から3カ月後の春。大河内氏は凱男氏と手術に当たっていた。執刀を無事に終えようとした時、右ひじから手先にかけてしびれが走った。安静にしたがしびれは右手から右半身全体を襲う。原因は脳梗塞。右半身が思うように動かず、言語にも障がいが残った。入院し寝たきり状態からのリハビリ生活が始まった。69歳は体に鞭を打って訓練を続ける。元平バプテスト教会牧師の高橋文子氏がお見舞いに訪れた日のこと。「歩けるようになったんですよ」と、片手で手すりを支えながら5、6歩歩き、手を離してさらに2、3歩歩いて見せた。高橋氏の目には、大河内氏の表情が幼い子どものように輝き、園児の笑顔がたくさん並んでいる様に映ったという。大河内氏は1本杖で歩けるまでに回復し、予想より早い1カ月半で退院した。

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● 「やっと障がい児の気持ちが分かった」
「一日訓練を休むとその倍努力しないといけない」と、大河内氏は自宅でも熱心にリハビリに励んだ。ある日訪ねてきた福島整枝療護園の当時庶務主任だった岡部明氏に熱く語った。「やっと障がい児の気持ちが分かるようになったよ。これからだよ、僕の仕事は」。闘病中も、頭の中は障がい児の未来でいっぱいだった。脳梗塞から7カ月後には上京し、心身障害児総合医療療育センター所長を訪ね、療護園の進むべき道を語った。この時期、日本肢体不自由児協会の最高表彰の高木賞を受賞。体に障がいを抱えてもなお、闘志は不屈だった。

● さらなる悲劇
言う事を聞かない体を引きずり「障がい児者のために」と前進する男に、さらなる悲劇が待ち受けていた。1974(昭和四十九)年の底冷えする1月26日早朝。「お父さん、早く!凱男さんが!」。大河内氏は妻の絶叫で目を覚ました。診療に当たっていた凱男氏は心不全で急死。35歳の若さだった。悪夢か現実かも分からないまま悲嘆に暮れるその10日後。凱男氏の後を追うように、妻が脳溢血で息を引き取った。後継者として期待していた最愛の息子、苦しい時にいつも支えてくれた妻を2週間経たずして失った。部屋に閉じこもり、誰とも話さない毎日。大河内氏は声なき慟哭を詩にぶつけた。

そっとしておいてくれ
誰もいない所に
俺は出ていきたい
悲しみに悲しんで
泣ける限り泣きつづけば
癒える心だろうか

〜中略〜

悲しみの極限には
泣けないんだ

「息子と妻の死」 / 大河内一郎氏・詩集「雑木林」より

この詩集「雑木林」は1974(昭和四十九)年に出版され、県文学賞の準賞を受けた。

● 力振り絞り、後継者探し
1977(昭和五十二)年秋。病身の大河内氏は仙台市で、西多賀病院の院長・湊治郎氏と面会した。訪問の目的は脳性麻痺の医療に取り組んでいた湊氏を療護園の園長に招く依頼。湊氏はこの時の大河内氏をこう振り返った。「伝え聞いていた熱血と自信に満ちた大河内一郎先生の姿ではなく、又紙背に徹すると言われた眼光の持主でもなかった」(「大河内一郎追悼記念 ただ障害児者の友として」 昭和61年発行)。翌年の夏、再び仙台市を訪れ湊氏と歓談している。後継者を探す一方、最後の仕事と計画していたのが療護園の退園者の訪問だった。介護者に付き添ってもらい、県内各地に足を運んで感動の対面を果たしていった。

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↑記念撮影する大河内氏(中央)と湊氏(右から3人目)=1978(昭和五十三)年8月、宮城県の国立療養所西多賀病院玄関(写真は「いわき福音協会五十周年記念誌 いわき福音」より)

● 脳梗塞を再発 寝たきりの最期
だが退園者訪問の半ばの1979(昭和五十四)年の春、大河内氏は脳梗塞を再発。生死をさまよいながら気管切開し一命を取り留めた。だが意識のはっきりしないままの寝たきり状態となり、会話はもうできなくなった。新たに赴任した療護園の園長はその年の暮れに辞任。専任の医師がいなくなり、路頭に迷った職員から再三懇願された湊氏は「もうこれ以上お断りすることは、人道にも、神の道にも逆らう」と園長就任を引き受けた。看護していた元福島整肢療護園の看護師・大谷英子氏は大河内氏の喜寿の誕生日を回顧。見舞いに来た多くの人でにぎわい、声を掛けられた大河内氏は頬を紅潮させ「ハー、ハー、ハー」と返事したという。その日から2年半。大河内氏は動くことなく息を引き取った。

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↑シオンの丘(写真は「いわき福音協会五十周年記念誌 いわき福音」より)

● シオンの丘に眠る
2019年3月13日正午、阿武隈山地の支脈の中腹。いわき市平赤井のキリスト教共同墓地「シオンの丘」に人影はなく、風に揺れる林の音に包まれていた。山側を背にすると平市街地が一望でき、鉛色の厚い雨雲が覆っていた。そこに立つ巨大な十字架は天から降り注ぐ小さな雨粒に優しく打たれ、雨雲の向こうから差す光に照らされていた。このような景色を眺め、大河内氏は妻と長男と一緒に安らかに眠っている。今も障がい児者を見守りながら。療護園の開園当時、墓碑にこう記せる人間になりたいと誓っていた。墓碑にはその言葉が刻まれている。「障害児者の友として」。

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<つづく>

【参考文献】
昭和四十九年四月発行 「詩集 雑木林」 著・大河内一郎
昭和五十二年八月発行 「詩集 シオンの丘」 著・大河内一郎
昭和六十一年六月発行 「大河内一郎追悼記念 ただ障害児者の友として」 発行・社会福祉法人いわき福音協会
平成十二年十一月発行 「いわき福音協会五十周年記念誌 いわき福音」 発行・社会福祉法人いわき福音協会

 

【この道をゆくバックナンバー】

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