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投稿:2018年02月23日更新:2021年05月12日

多職種連携・地域連携

257. 消える字名「三十九町」の謎に迫る 前編・当法人の所在地

当法人のある「福島県いわき市平谷川瀬字三十九(さんぞく)町」の字名「三十九町」があす24日、土地区画整理により表舞台から消えます。「三十九」というミステリアスな数字の地名はいつ、なぜ生まれ、由来はなんなのか―。いわきの歴史に詳しいいわき総合図書館の元館長や、歴史が刻まれた碑を残す神社やその総代長を尋ね回り、郷土史探訪に出かけました。前後編の前篇。

 

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↑ここが「三十九町」であるのを伝える電柱のプレート=2018年2月23日午後1時42分
● まさかの単純な命名
字名の由来はすぐに判明しました。「地名の変化にみる、いわきの近代化」(2008年10月・いわき未来づくりセンター発行)によると「大字谷川瀬字三十九町」の地名は1906(明治三十九)年8月に誕生します。耕地整理事業に伴い、「大字谷川瀬」内の「桝田」と「平沢田」の両字が「三十九町」と名前を変えました。かつてたびたび洪水が発生していたという「谷川瀬」の名前もそれまで度々改称され、文書には1353(文和二)年に「矢河子村」、1357(延文二)年に「矢河瀬村」、江戸時代中期に「谷川瀬村」と、それぞれ地名が残っているようです。「三十九町」の由来ですが、勘の鋭い方はもうお気づきのように、「三十九町」に隣接する字は「明治町」。つまり、耕地整理事業が行われた「明治三十九年」の年号と年数にちなんで、「明治町」とともに「三十九町」と名付けられたそうです。

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↑山内クリニックのある「字三十九町」一帯=2012年4月7日

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↑「字三十九町」最後の日の山内クリニック(右手前)周辺=2018年2月23日午後1時44分

● 珍しく異例な地名
「地名の変化にみる、いわきの近代化」の編集に携わった、いわき総合図書館の元館長の小宅幸一さん(現いわき明星大学地域連携センター事務室)は、「年号と年数から地名を付けるケースはとても珍しい」と語ります。地名を変更するには各都道府県に申請する必要がありますが、明治時代当時はその土地と縁のない名前をつけたら基本的に却下され、審査は厳しかったといいます。そのような中で安易とも思える名前が認められ、小宅さんは「異例」と驚きます。ちなみに当時、合併に伴い新しい地名を付けることに困ったらその土地ゆかりの川や山、有力者の名前を付けるようにと国が推奨していたようです。いわき市内のケースでいうと、かつての夏井村は夏井川、赤井村は赤井岳にちなんで名付けられていました。現代では、市民の同意形成があれば比較的自由な地名が認められる傾向にあるようで、近年のいわき市内の例では「中央台」のように公募で決まったケースもあるといいます。

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↑地名を解説する小宅さん=2018年1月15日、いわき市のいわき明星大学地域連携センター

● 「歴史」を残す意義
いわき市の歴史に造詣(けい)が深い小宅さんは、明治時代の工業化を支えた常磐炭鉱やそこにまつわる鉄道、さらに全国的に盛んだったといういわきの遊郭の歴史も掘り起こし、著書を残しています。小宅さんは「明治以降のいわきの歴史があまり残されていない」と懸念します。郷土史は住民に郷土愛を育ませ、町づくりの原動力になると話す小宅さん。「地域のために」という動機があれば財源が絶たれても事業を続ける粘りが出ると、「歴史」の持つパワーを話しました。

小宅さんが「異例」と驚く年数の字名。なぜそこから名付けられたのか。その謎はまだ闇の中。小宅さんによると、当時の耕地整理の記念碑が谷川瀬地区内にあるという。その石碑には何が刻まれているのか。

(後編につづく)

↓以下3枚の地図は「飯野の歴史散歩」(1994年・山田松之助著)より
いわき市地図 (517x640)

谷川瀬地図・谷川瀬村 (640x431)

谷川瀬地図・三十九町前 (640x560)

【参考文献】
「地名の変化にみる、いわきの近代化」(2008年10月・いわき未来づくりセンター発行)
「飯野の歴史散歩」(1994年・山田松之助著)

【消える地名「三十九町」の謎に迫る】
後編(2018年2月27日投稿):https://iwakikai.jp/blog/1394/

【歴史もの記事】
「40年以上前に全国的に先駆けてお年寄り医療や地域連携に取り組んでいたいわき市勿来地区の齋藤光三氏の伝記連載」:http://ymciwakikai.jp/category30-1.html