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投稿:2019年01月04日更新:2022年12月06日

いわき医療偉人

482. この道をゆく・大河内一郎伝記⑦~奇跡を生んだ素人映画

いわき市平(当時の平市)に肢体不自由児施設「福島整肢療護園」を建設した医師・大河内一郎氏(享年79)は、障がい児の思いを社会に訴えようと自主映画製作に取り掛かる。知識も技術もない。それでも職員のみならず地元高校生や警察署員も巻き込んで撮影し、小児まひ児の必死のリハビリを描いた映画「光の歌」を完成させた。全国紙にも報道されて話題になり、国の推薦映画に指定された。素人監督が製作した映画は時を経て海を渡り、アメリカの一人の女児による奇跡を起こす。「いわきの福祉の父」と称された大河内氏に迫る不定期連載の7回目。(「地域連携・企画広報課」・西山将弘)

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↑社会福祉法人「いわき福音協会」で飾られている映画撮影当時の写真。映画監督さながらの大河内氏や助手を務める園児

● 肢体不自由児の思い 世に訴えよう
1952(昭和二十七)年秋に福島整肢療護園が誕生後、障がい児とともに毎日を過ごす大河内氏。日々、胸を打つのは「肢体不自由児のみがもつ哀愁と悲しみ、口にこそ出さないが社会へのひそかな願い」(昭和三十九年十月「光の丘の子どもたち」)。「そのいじらしい心根にいくたびか私は涙を催した。この子たちに代わって私は世に訴えよう、真実を」(同)と、一念発起して自主映画の製作に挑む。いくつかの映画製作所を訪問し、映画の参考書を読みあさり、撮影所を見学した。そんな折り、偶然にカメラマンの齋藤みちを氏と出会い、協力して撮影することになった。

● 資金不足の“プロダクション”
シナリオが完成したのは1953(昭和二十八)年3月。すぐに撮影が始まった。鉄橋から母子心中しようとする場面の撮影からクランクイン。潤沢な資金がない“プロダクション”のカメラは借り物のツァイス製のムビコン16ミリ撮影機。レンズは望遠や広角もなく、ゾナー1・4の25ミリの1本だけ。フィルムを1巻撮影する度に資金不足で撮影が延期される始末だった。大河内氏は「ワンマン監督」と自称し、齋藤氏を困らせていたと自著でつづっている。

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↑映画撮影に使った当時のカメラ=社会福祉法人いわき福音協会

● 住民も巻き込み 作品完成
最も困難を極めたのは、子どもの自然な姿をカメラに収めること。人目を嫌う子どもにカメラを向けるため、当然表情は硬くなった。そこで齋藤氏は子どもとの触れ合いに時間を費やす。心を開いてもらえるまで、紙芝居を披露したり、ボール投げで遊んだりした。さらにカメラを見せないよう、袖の下、人や物の陰に隠す工夫も施した。自然な表情の撮影に成功するたび、小踊りして喜んだという。出演者は職員では足りず、大河内氏の弟夫婦、磐城女子高(現在の桜が丘高)の生徒、平警察署員、平児童相談所長にも協力を依頼。大河内氏は撮影日和の日は診療を午前中で切り上げて撮影に打ち込んだ。クライマックスは小児まひの少年が手術後、歩行訓練を繰り返して必死に立ち上がる姿を撮影。療護園の視察に訪れて撮影を知った朝日新聞社の記者は主題歌を作詩。あらゆる人を巻き込んで作品が完成し、1954(昭和二十九)年10月、ついに東京都内で試写会が開かれた。映画は文部省(現在の文部科学省)選定、厚生省(現在の厚生労働省)推薦を受けた。

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↑映画のフィルムを購入し、海外で上映したニコルソン氏(「光の丘の子どもたち」掲載写真)

● ハワイの女児の心打つ
映画「光の歌」は海を渡った。宣教師のニコルソン氏が1956(昭和三十一)年、フィルムを購入してアメリカに帰国し、各州の学校や教会で上映した。それにより寄付の輪が広がった。ハワイの名門校というプナホースクールでは、映画に心打たれた小学5年生の女児・ジェニファーが「日本のポリオの子どもを救おう」と立ち上がった。ジェニファーはポリオで長く辛い療養生活を経験していた。リハビリ効果を体験していたプールの寄贈を生徒会に提案。だが多額の費用が必要で却下。それでもジェニファーは同級生を説得して回り、夏休みにアルバイトで資金づくりする計画を立てた。小学生から中学生までが協力し、自動車清掃、芝刈り、家で皿洗い、新聞配達などで汗を流した。ニコルソン氏は子どもたちの善意120万円の小切手を療護園に贈った。その額は療護園の創立後12年間で配分された共同募金の総額とほぼ同じだった。終戦からまだ10年ほどしか経っていない時で、真珠湾攻撃を受けたハワイから、仕掛けた側の日本に届けられた愛。太平洋戦争を経験した大河内氏の心は打たれた。国境を越えた愛と行動によって1958(昭和三十三)年8月、プナホープールと名付けた室内プールが完成。それは障がい児の真実を伝えようとした映画素人が起こした奇跡だった。

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↑映画を見て心打たれたハワイの女児が呼び掛け、子どもたちが寄付をしたプナホープール。水治療法に利用された(「光の丘の子どもたち」掲載写真)

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↑プナホープールの前でラジオ体操する子どもたち(「光の丘の子どもたち」掲載写真)

【参考文献】
昭和三十九年十月発行 「光の丘の子どもたち」 著・大河内一郎
昭和六十一年六月発行 「大河内一郎追悼記念 ただ障害児者の友として」 発行・社会福祉法人いわき福音協会

 

【この道をゆくバックナンバー】

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