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投稿:2017年08月30日更新:2022年12月06日

いわき医療偉人

130. 医を業として・齋藤光三氏伝記①~日本初の診療所デイサービス

お年寄りが介護サービスを受けるのが珍しくない今から数え、40年以上前の話だ。舞台は斜陽の炭鉱町だったいわき市勿来地区。孤独なお年寄りがあふれ返ったこの町に、齋藤内科の院長・故齋藤光三氏(享年82)は「デイ・ホスピタル」を誕生させる。「『お遊び』が老人の医療には必要」。そう信じた齋藤氏の先駆的な挑戦だった。病院がお年寄りのサロンと化し社会問題となった当時、周囲からは揶揄(やゆ)された。だが次第に全国的に脚光を浴びるまでに成長。その集いの場には、お年寄りと医師、看護師ら職員との家族のような触れ合いがあった。日本初の診療所デイサービスとなった齋藤内科は7年前に閉院、齋藤氏が息を引き取ってからこの8月で4年が過ぎた。全国で「地域包括ケアシステム」「多職種連携」の推進がさけばれる今こそ、この先駆者の功績がその発展への道しるべになるのではないか―。お年寄りに寄り添い、地域医療に情熱を燃やし続けた齋藤氏の想い、その「デイ・ホスピタル」に迫る。不定期で連載。(企画課・西山将弘)

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↑在りし日の齋藤光三氏

● 現存する齋藤内科の建物
曇り空の2017年7月下旬のある日。茨城県境に近いいわき市勿来地区中心部。地方銀行支店の隣に齋藤内科は建っていた。ブラインドとカーテンは閉まっている。入口には「売物件」の看板。二階建てコンクリート造りの外壁はくすみ、車いす患者用のインターホンを備え付けた木柱の一部が花壇に横たわる。砂利の駐車場跡には雑草が伸びていた。多くのお年寄りを乗せた施設の大型車が目の前の道路を走り、通り過ぎる。かつてお年寄りの笑い声が絶えず聞こえていたであろう、その面影はない。明けるのが遅い梅雨の空に、数匹のセミの鳴き声が響いていた。

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↑40年以上前にデイサービスに取り組んでいた齋藤内科。現在は閉院=いわき市勿来地区・2017年7月27日

● 劣等生だった学生時代
齋藤氏は1930(昭和五)年、いわき市勿来で誕生。祖父は歯科医、父は医師の家系で育つ。「勉強ぎらいで怠け者であり、仕事はなるべくしたくない遊び好きの人間。~中略~現在のような進学事情では、とても医学部に入学できない」(平成四年六月『県医師会報』)と自身を評し、学生時代は歯科医をめざすも挫折。進学した東邦大理学部で遊びほうけて成績も悪かったというが、医学部に編入して医師に。1960(同三十五)年に勿来市国保診療所に入職、1966(同四十一)年に齋藤内科を開業した。

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↑齋藤内科=いわき市勿来地区・2017年7月27日

● 斜陽の炭鉱 支えないお年寄り
石炭から石油へのエネルギー転換が進み、炭鉱で栄えたこの地区は斜陽を迎える。国保診療所に勤務した昭和三十年代当時のまちの様子を、齋藤氏はこう振り返る。「やがて閉山、若者は出稼ぎで転出していった。雨漏りのする長屋に、寝たきりを看病している老婆や、ひとり暮らしの病弱な老人をよく往診したものだった。農家の多くが兼業農家となり、男は工場に勤め、女は鶏を飼わねばならず、老病人の部屋は暗く汚れ、餡(あん)パンと水の入ったやかんだけがあったりした」(昭和五十七年十月「県医師会報」)。齋藤氏は「こうした老人との出会いが老人医療に私を走らせた」(同会報)と回顧している。介護サービスや住環境は改善された現代。だが、子どもは親元を離れ、老々介護や病気を抱え一人暮らしするお年寄りの姿は、かつての炭鉱の町と高齢化社会の今とで重なるように思える。

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↑診療所脇にあった齋藤氏の自宅を増改築し、1985年につくられた訓練スペース。残されている道具が当時の名残をとどめる=2017年7月27日

● 嘲笑された「お年寄りの集いの場」
親の遺した土地に診療所を建て齋藤内科を開業してから8年後の1974(昭和四十九)年6月、「デイ・ホスピタル」が始まる。施設収容から在宅に転換していた欧米を参考にした入院と外来医療の中間施設で、看護やリハビリテーション、作業療法、レクリエーション、入浴サービスなどを行うまさに現代のデイケアサービスだ。当時は「高齢化社会」「リハビリテーション」などの言葉が一般的でなく、病院待合室のお年寄りのサロン化に世間が批判し、介護保険もない時代。設立のため二階を増築してその治療スペースを設けようと、齋藤氏は800万円の融資を申し込む。だが、銀行側は収益面に難色を示し、二つ返事とはいかなかった。それでも時代に逆らうように「お年寄りの集いの場」を診療所につくる。同業者からは「老人を集めて何をしているのか」と嘲笑や非難を受けた。

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↑訓練スペースでリハビリを受けるお年寄り

● 苦節7年4カ月の涙
齋藤氏は1981(昭和五十六)年10月、朝日新聞社主催のセミナー「高齢者の診療と看護」を2日間にわたり聴講する。最終日は大阪府立大社会福祉学の奈倉道隆教授による「高齢社会の医療」と題した講義を受けた。在宅ケアの重要性や、高齢社会には欠かせないが普及しないデイ・ホスピタルに触れた講話に、青天白日の心境となる。質疑で自身の取り組みを伝え、奈倉教授から絶賛と激励を受けた齋藤氏は、その日をこう回想している。「帰途は築地の朝日新聞社から銀座まで歩いて出た。奈倉教授の講義が嬉しかった。鬼の首でも取ったような興奮で一杯であった。わけもなく溢れる泪をこらえきれなかった。銀座のネオンが泪でぼやけ、万華鏡のように輝いた」(昭和五十七年十月「県医師会報」)。「デイ・ホスピタル」が始まってから苦節7年4カ月後の涙。ついに日の目を見た齋藤氏のこの「集いの場」とは、一体どういうものだったのか―。

(続く)

【参考文献】
昭和五十七年十月「県医師会報」
昭和六十三年「別冊日経ヘルスケア」第2集
平成四年六月『県医師会報』
以上は「平成十六年1月発行『老人医療断想 終の棲み処』 著・齋藤光三氏 編集・日々の新聞社」に収録

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<医を業として・齋藤光三氏伝記>

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