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投稿:2017年09月19日更新:2022年12月06日

いわき医療偉人

144. 医を業として・齋藤光三氏伝記③~看護師の思い出

40年以上前に診療所デイサービスを始めた福島県いわき市勿来地区の齋藤内科(現在は閉院)で、看護師として長年働いていた関根正子さん(73)。院長の故齋藤光三氏(享年82)の下で訪問看護も行い、10余人の職員と力を合わせてお年寄りを支えていた一人。当時のリハビリ施設の様子や、齋藤氏の教え、思い出などを聞いた。不定期連載の3回目。(企画課・西山将弘)

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↑齋藤氏の下、全職員が一丸となってお年寄りを支えていた。職員の集合写真

● よみがえる当時の思い出
齋藤内科診療所脇には、齋藤氏の自宅を増改築してつくったリハビリ施設が現存する。齋藤氏の祖父の代から受け継いだ築100年を超す木造だ。「懐かしいですねえ」。関根さんは、窓から中を見つめながら当時の記憶をよみがえらせる。木造のフロア、リハビリ用の平行棒の手すり、車いす―。「あそこで布団を敷いて患者さんが休んでいた」「仏壇の前に置いてあるダルマは、患者家族さんの手作りでいただいたもの」「このいすは、先生の友人から廃棄する飛行機の座席を譲り受けたもの」。思い出が次々とあふれる。「わたしもここに通いたかった」。かつて全国各地から視察や取材陣が詰めかけるほど脚光を浴びたこの施設。掛けられていた月めくりカレンダーは2009年11月だった。

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↑齋藤内科の前で当時の思い出を語ってくださった関根さん=2017年7月27日

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↑現存するリハビリ施設。左手前のいすは、齋藤氏が友人から譲り受けたというもの(ガラス越しに撮影)=2017年7月27日、いわき市勿来地区

● 齋藤氏の右腕として閉院まで活躍
元々、齋藤内科の受付で働いていた関根さんは1971(昭和四十六)年、患者の力になりたいと、齋藤氏の勧めもあり看護学校に入学。働きながら5年間通学し、准看護・正看護の資格を取得した。1978(同五十三)年1月から始まった訪問看護にも携わり、在宅ケアを支えるために看護師の重要性を強く訴えていた齋藤氏の右腕として、閉院するまで活躍した。齋藤氏はほかの職員にも、ヘルパーや居宅介護支援員(ケアマネジャー)などの資格取得の応援をしていたという。

● 患者の生きがいだったバザーの作品作り
関根さんが一番最初に語った思い出はバザー。日ごろホールで趣味に打ち込んでいる患者が、特技を生かした自慢の作品を会場に並べる。そば打ち、大工、板金、植木、縫い物、編み物、料理―。若いころに腕を鳴らした職人ぞろいだ。大工はびょうぶのわくを組み立て、板金屋は一斗缶を加工してくず取りをつくる。女性は肌着や前掛け、袋物、人形などを仕立てた。患者家族はお弁当を準備し、バザーの日を楽しみにしていた。現代よりも娯楽が少なかった当時。「患者や家族にとって、バザーで作品を披露できるのは生きがいだったようです」。関根さんはそうほほ笑む。

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↑当時のリハビリの様子

● 指導を受けたお年寄りへの敬意
「『デイ・ホスピタル』での仕事は全て看護職、ヘルパー、調理師に任されていた」という。齋藤氏から細かい指示を受けることは少なく、ケアの報告をする際に問題点があれば指摘を受けていた。だが齋藤氏が厳しくした指導があった。それは「たとえボケていても年上の人を尊敬しなさい」「言葉遣いに気を付けなさい」というお年寄りへの敬意。関根さんは「(齋藤氏は)本当にお年寄りを大事にし、喜ぶことは何かを常に考えていた」と振り返る。

● 家族のような触れ合い
「デイ・ホスピタル」を始めた当初、収益の見込みもなく当然職員も不安に駆られた。「収益にもならないのに、本当に大丈夫ですか?」。関根さんがそう相談すると、齋藤氏から「心配するな。お金は後からついてくるから」と返事があり、不安なく仕事をさせる雰囲気をつくってくれたという。気遣いは職員の家族にも。小中高校の下校時間になると、齋藤氏は子を持つ職員に「子どもは腹を減らして帰ってくる。おにぎり作ってやれよ」とよく言った。職員は食堂で握り、子どもたちの帰りを齋藤内科で待った。「家族の事、子どもの学校生活や就職など、病気以外のことも相談していた」。家族のような触れ合いが忘れられないという。

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↑右手前の建物が自宅を増改築したリハビリ施設。その左脇が齋藤内科=2017年7月27日

● 先生の想い 後世にまだつながっている
齋藤内科では、診療所同士で患者の情報を共有してケアする「病診・診診連携」にも取り組んでいた。この連携を深めるきっかけは、毎月1回、齋藤内科で開かれた勉強会「寝たきり老人を考える会」。講師を招き、医師、看護師、患者家族の代表者、市職員らと勉強し合った。齋藤内科が閉院し勉強会が途絶えた後、皮肉なように国は地域包括ケアシステムの推進を加速させる。齋藤氏が道なき道を歩み、築き上げた地域医療の礎は絶たれるのか―。今年6月、市医師会が主催した在宅医療市民公開講座でパネリスト2人が、齋藤氏の「診診連携」に触れ、当時の思い出を語った。その会場で聴講していた関根さんはこう思った。「(齋藤)先生の想いはまだつながっている」。

● 望み通りの死
「おれはいつまで生きれるか?今年いっぱい生きれたらいいな」。自宅の病床に伏す齋藤氏は、そうもらしていたという。肺炎の呼吸不全のため酸素吸入も行い、関根さんは「苦しかったのでは」と思い巡らす。2013年8月22日朝。自宅の畳の上で妻や娘、妹、関根さんらに囲まれ、齋藤氏は静かに息を引き取った。生前、齋藤氏はエンディングノートのような随筆を残していた。人間の尊厳を認めない延命至上主義の医療をうれい、「私自身の臨終は、難しい問題はあっても、借金してやっと手に入れた今の自宅の座敷で迎えたい」(平成三年九月「はくたい」)としたためていた。その願いは、かなった。

(続く)

【参考文献】
平成三年九月「はくたい」
以上は「平成十六年一月発行『老人医療断想 終の棲み処』 著・齋藤光三氏 編集・日々の新聞社」に収録

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