1本の30分ビデオテープがある。ラベルには「すこやかライフ お花見で老人医療」の文字。再生すると、お年寄り患者が花見を楽しむ場面が映し出される。これは1983(昭和五十八)年5月7日、テレビ朝日系列で全国放送された名古屋テレビ制作の番組だ。カメラはいわき市勿来地区の齋藤内科(現在は閉院)のお年寄り医療を複数日にわたり追い掛けている。元日本テレビアナウンサーの志生野温夫さんによる当時51歳だった院長・故齋藤光三氏(享年82)へのインタビューも収められた貴重な映像だ。当時はテレビ局だけでなく朝日新聞などからも取材を受けており、齋藤内科が全国的に注目を浴びていたことを証明する。放送から34年。志生野さんの回想を交えて番組をひも解き、齋藤氏の功績を見つめ直す。不定期連載の5回目。(企画課・西山将弘)
● レポーターは志生野さん
桜の名所として知られるいわき市の「勿来の関公園」。紅白の横断幕が張られ、手拍子に合わせて歌うお年寄り一行を背に、レポーターの志生野さんがその花見の様子を伝える。「元気に歌っているお年寄りはある医院に通っております。したがって歌を歌っているのは患者さんでございます。職員の皆さんも楽しそうにしております」。プロ野球読売ジャイアンツのV9時代にも実況した名スポーツアナウンサーが巧みな語り口でリポートする。お年寄りや職員は合わせて50人はいるだろうか。桜の花とともに、弁当を置きシートの上で手拍子したり、マイクを握って歌ったりする表情がとらえられ、楽しげな宴を伝えている。
● お年寄り医療が暗いイメージだった当時 新鮮だった齋藤内科
「すこやかライフ」は企画に日本医師会も関わっていた番組だ。志生野さんによると、当時の最先端医療の現場や地方の診察所までインタビューで全国を飛び回った。今年7月に亡くなった聖路加国際病院の日野原重明名誉院長にもお年寄り医療を取材したという。1980年代当時は、老人ホームに入所する人は「これで人生終わり」と、送り出す家族も「申し訳ない」と考える社会だったという志生野さん。齋藤内科に取材したのは、暗いイメージのないお年寄り医療を、齋藤氏の人柄とともに微笑ましく伝えたかったといいます。番組は24分。オープニングの花見の場面から齋藤内科のシーンに切り替わり、患者の診察やリハビリ、昼食、レクリエーション、訪問看護などの様子を伝え、再び花見のシーンに戻る構成だ。志生野さんによる齋藤氏のインタビューも交えている。
● レクリエーションも医療
昼食のシーン。齋藤氏や職員が患者とともに食卓を囲んでいる。齋藤氏や職員は一人の患者に「左手の使い方が上手になった」「顔色がいい」と声を掛ける。食事中もコミュニケーションを取り、患者の具合に目を配っているのが分かる。レクリエーションは本格的だ。男性はナイフや手動のキリ、直角定規などを駆使し、共同で木工作業し、女性は縫い物に集中している。それから花見で披露する歌の練習が始まる。「一見、レクリエーションとも思えるこうした『デイ・ホスピタル』での一日は、何よりも医療行為と齋藤先生は考えています」。ナレーターはそう伝えている。歌の練習をした女性は、通院する感想を聞かれ「気持ちがとってもなごやかになって、病気に負けないのよ。強くなった。そこがよくてみんな集まってくるのよ」と語っている。
● かつての常磐炭田のまちで訪問看護
看護師が老夫婦の家庭を訪問する場面も。ナレーターは「かつて常磐炭田があったこの地方には、こうした寝たきり老人を抱える老夫婦の家庭が目立ちます」と伝える。ベッドで寝ているお年寄り男性に、看護師2人が「血圧を測りに来ましたよ」と声を掛け、血圧を測定、問診、ひげそりもしている。そばでじっと見つめていた妻は「みんな親切にしてくれて、初めは毎日来てくれたのよ」と感情を込めて語る。続いて長屋を訪問。筋無力症の男性を花見に誘うと「行かないことにしたの」と経済的な理由で断られる。看護師は「うーん」と残念そうな表情を浮かべる。齋藤内科の全スタッフがそろったインタビュー場面も。看護師5人、事務員2人、給食係1人が院内で並んで座る。看護師長は「これから老人医療は看護が主役だと思っている。慢性の病気があっても、自宅でなんとか楽しい一日が過ごせることが一番大事」と、事務長は花見について「また来年もと思ってもらえるような、一つの生きがいを感じてほしい」などとそれぞれ語っている。
● カメラは花見の準備も追う
訪問診療に出掛ける齋藤氏は、グレーのスーツ姿。黒の大きなカバンを持って訪問先に向かい通りを歩く。家では寝たきり患者の体調を確認している。シーンは花見の準備の場面に切り替わる。職員が、車いすやポータブルトイレを軽トラックに積む。齋藤氏は院内で出し物のカツラをかぶり「ばか丸出しだ」とはにかむ。カメラは花見前夜の場所取りも追い掛けていた。快晴の翌日。集合時間の2時間前に患者が齋藤内科に次々と集まる。齋藤氏や職員は打ち合わせして安全確保を確認している。バスで公園に移動し、歩行困難な患者は家族と思われる人や職員に車いすで押してもらったり、介助してもらっている。乾杯し、お弁当や酒を楽しむ。当初参加を拒んでいた筋無力症の患者の姿もあり、齋藤氏は「来ないと聞いてたから気をもんでいたの。出てこないと体がどんどん動かなくなっちゃう」と声を掛けていた。
● お年寄り医療の発展へ 34年前のメッセージ
華やかな花見のシーンから青い海に切り替わる。齋藤氏は志生野さんと向かい合ってテトラポットに腰掛け、インタビューを受ける。マイクを向けられた齋藤氏は「(病院と家庭との)中間施設がどんどんできないと日本の医療は進まない」「福祉と医療はバラバラ。みんな連携していかないと非常に効率が悪い。福祉と医療を近づけなければ、これからの老人医療は対処できない」などと将来の在るべきお年寄り医療について語る。「外出する機会がなくなると老化が進む。だから花見などの行事を取り入れて外に出掛ける」と話す齋藤氏に「そういったことが生きがい、生きる力につながるのでしょうね」と返す志生野さん。齋藤氏は「それも治療の一環です」と答えた。絶え間ない波の音が力強い―。
● 「こういった地域医療が広がるよう、祈らずにはいられない」
「♪幸せは 歩いて来ない だから歩いて行くんだね」。桜の木の下で、患者や職員が手拍子に合わせ大きな声で歌う。「ワン、ツー、ワン、ツー」。志生野さんにマイクを向けられると誰もが元気で笑顔だ。94歳男性が熱唱する場面も。職員は「勿来小唄」を歌い舞う。齋藤氏はちょんまげと着物姿で「大利根月夜」を熱唱。盛り上がる花見を背に、志生野さんはこう番組を閉める。「こういった地域医療が今後ますます広がっていくように、祈らずにはいられません」。
● 「忘れてはいけない原点みたいなもの」
当時現場をリポートしていた志生野さんは現在85歳。「老人の花見というより、園児たちが楽しんでいる。そんな印象だった。看護師さんたちの存在も立派だった」と齋藤内科の花見を思い出す。「(齋藤氏は)医師というよりお年寄りたちの息子といった存在で、自分も心から花見を楽しんでいた」と懐かしみます。「高齢化社会の今、多くの老人ホームが乱立し需要が増す中で、齋藤内科のお年寄り医療は忘れてはいけない原点みたいなもの」「齋藤先生と今お話しできたら心から満たされるだろうな」。齋藤氏の功績は、志生野さんの記憶の中でまだ輝いていた。
↑34年前に取材した思い出のメッセージがつづられた志生野さんからの手紙
(続く)
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番組について名古屋テレビに問い合わせたところ、あまりに古いため当時の資料が残っていないと返事をいただきました。動画をブログに投稿することについては、複雑な著作権上の問題から許可をいただくことができませんでした。34年前の当時最先端だったお年寄り医療の映像をご覧になってもらうのは社会的利益になると信じております。もし興味のある方は担当の企画課・西山(masahiro.nishiyama1012@gmail.com)までお問い合わせください。
<医を業として・齋藤光三氏伝記>
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