「食介護」を普及させようと、いわき市の歯科医師・市川文裕氏(享年56)は全国各地に飛んで講演して回った。毎週のようにスケジュールが組まれ、思い出の地「沖縄」での講演も果たす。だが多忙さがあだとなり、体の異変を自覚しながらも検査を怠ってしまう。入退院を繰り返す生活になりながら、それでも“食介護の伝道師”であり続ける。介護を受ける立場になってなお「口からおいしく食べ続ける」介護を考え抜き、死の間際まで学びを後世に伝えていた。市川氏の足跡を残す不定期連載の5回目。(事業推進室・西山将弘)
↑「家族介護教室」で住民に「食介護」を伝える市川氏=福島県広野町・2002年2月9日
● 8年間で全国189回講演
市川氏の講演会・学会日程の記録が残っている。1999(平成十一)年1月から亡くなる11カ月前の2007(同十九)年5月までの講演名、場所が記されている。その講演の数は189回。一番多い年の2001年は31回で、その年の10月は8講演をこなしている。いわき市のみならず、県内は都市部、山間部を含め14市町村を回り、県外は東北、関東、中部、中国、九州・沖縄の各地方の計14都県を訪れている。講演の主催は主に市町村、病院、歯科医師会、介護施設など。本業の歯科診療に加え、食介護研究会の活動、講演の資料づくりなども抱えていたのを考えると過密スケジュールだ。
● 沖縄でも“凱旋”講演
市川氏が特別な思いを持っていた講演の一つは2003(平成十五)年1月の沖縄。青年時代に「無歯科医村診療団員」として巡った思い出深い沖縄を再訪し、当時から付き合いのある地元の方々との再会を果たすのは念願だった。だが、この沖縄講演の前からすでにがんの兆候を自覚していた。市川氏の妻・孝子さんによると、活動に追われていたため2年ほど検査を怠っていたという。病院に行けば沖縄に行く機会を失うのを予感した市川氏は、沖縄講演を終えてから検査し入院した。
● 入院した病院でも指導
その後、入退院を繰り返しながら精力的に活動を続ける。入院生活が続いた晩年、介護を受ける立場になったのを生かすように「食介護」をなおも追求していく。病院のベッドで食べやすい姿勢、テーブルの高さ、あつかいやすい食器、介護食などを考えていた市川氏は、担当看護師に「これは食べにくい」と。郡山市の手術を受けた病院では、患者でありながらもその病院職員を集めて「食介護」の講演もした。市川氏の食介護を伝える情熱について、「いわき食介護研究会」の創設メンバーの歯科医師・小川一夫氏(小名浜地区・小川歯科医院)は「(市川氏は)使命感に燃えていた。精力的に講演する姿は『食介護』の伝道師のようで、飲み屋で飲んでいても周りの人に伝えていた」と思い返す。
↑市川歯科医院内にあった「食介護」アイテムをそろえたショールーム
● 亡くなる直前まで「食介護」追求
亡くなる2カ月前の2月15日。「いわき食介護研究会」創設メンバーの歯科衛生士・島美香氏(ときわ会)は市川氏から突然の電話を受けた。「電話で話していいか?」と切り出され、緩和治療の影響で口内炎ができ、少し擦れただけでも痛む口内環境が伝えられたという。島氏は「自分の身をもって伝えたかったはず」と、市川氏との最後の会話を思い出した。
● 「念ずれば花開く」
2008(平成二十)年4月23日。市川氏は本人の希望で自宅で息を引き取った。孝子さんが記憶している市川氏が最後に口にしたのは果物だった。内助の功を尽くした孝子さんは、誰からも好かれた市川氏の人柄をしのび「『社会のため』というより、好きな事を楽しくやっていただけだと思う」。目標を決めたら突っ走ってきた市川氏の墓石にはこう記されている。「念ずれば花開く」。
(つづく)
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