いわき市平(当時の平市)に肢体不自由児施設「福島整肢療護園」を誕生させた大河内一郎氏(享年79)は、医師でありながら教育者としての一面も持つ。一医師がなぜ「教育」にも強い関心を寄せていたのか。それは「問題児」のレッテルを張られて悪さばかりしていた小学校時代、正しい道に導いてくれた担任教諭の「教育」が大きく影響したのではないか。「医療と教育」の実現を目指した教育家としての大河内氏に迫る。不定期連載の5回目。(「地域連携・企画広報課」・西山将弘)
↑歌、感謝の祈りがあったという食事の時間(「光の丘の子どもたち」掲載写真)
● 父譲りの性格 武士教育
小学校時代の話の前に、大河内氏の父・友蔵の教育を振り返る。大河内氏が資金計画なく情熱だけで「療護園」建設をめざした行動力は、友蔵の教育と遺伝が大きく影響しているだろう。井伊直助を襲撃し切腹した水戸浪士を師匠に持ったという友蔵は、彰義隊士の生き残りだった。厳格な友蔵は磐城中学校(現在の磐城高校)の武道教師を勤めた後、整骨術を生かして入院もできる接骨院を開いた。大河内氏は「父は一旦思いつめると、どうしても実行せずにはいられない性格の様であった」(昭和五十年一月「蕗のとう」)と自伝小説でその性格が遺伝したのを認めている。さらに幼少期から剣術で厳しく育てられ「負けじ魂と、意地っ張りは、父の武士教育によって鍛えられた」とも書き残している。
● 悪ガキだった小学校時代
大河内氏の幼少期は、弟だけをかわいがる父と、「あんたはお兄ちゃんだろう」と言う母に不満を抱えていた。小学校に入学すると悪ガキになる。けんかしたり、教室の窓から体を乗り出して放尿したり。「『オキ』(お気に入り)をつくるから」という理由で女性教師を嫌い、かわいがられる金持ち優等生の級友を訳もなくいじめていたという。その度に教師にしかられ、よく怒られる級友とすぐ意気投合。成績は中ぐらいで苦手科目は算術だった。
↑児童指導員が担当した開園当初の教育 (「光の丘の子どもたち」掲載写真)
● 「やればできる」 気付かせてくれた恩師
学校では乱暴で成績も悪い「問題児」扱いを受ける中、小学校5年生2学期になって担任教諭が佐藤伊之八氏に代わった。着任したその日、大河内少年は佐藤氏が小便している最中に便壺に大きな石を投げて尿を弾かせた。授業時間にしかられると思いきや、佐藤氏は怒らなかった。数日後、大河内少年は教員室に呼び出しを食らった。「ついに殴られる」と覚悟したが、佐藤氏から言われたのは意外な言葉だった。「お前は勉強すると、きっと出来るようになる」。大河内少年は祖父以外から初めてほめられた。悲しい訳でも嬉しい訳でもない、なんだか分からない感動がこみ上げて急に涙したくなった。その時、佐藤氏から「勉強してみろ」と発破を掛けられた。
● 成績が伸び進学 恩師の愛
その数日後、中学校で算術を教える片岡先生を父から紹介された。大河内少年は片岡先生の下宿先に通って熱心に勉強するうち、成績はみるみる伸びた。5年生を終えたころには、成績優秀者として全校生徒の前で名前を呼ばれて賞状を受け取った。「ぞくぞくとこみあげてくる喜び」を味わった大河内少年。中学入学前ですでに中学一年の試験を楽に解答できるまでに成績が上がった。その後、無事に磐城中学校に合格。その入学式で佐藤氏と再会した。当時相馬市に住んでいた佐藤氏は、お祝いのためにだけ片道5時間以上の道のりを駆け付けてきた。出会った時の思い出話になると、算術の先生をつけるよう父に頼んでいたのは佐藤氏だったと知った。桜の木の下。大河内少年は「もっと勉強します」と約束した。教え子への愛を一身に受け、未来を切り開く「教育」の力を痛切に感じたのは、この時だったのはないだろうか。
<つづく>
【参考文献】
昭和三十九年十月発行 「光の丘の子どもたち」 著・大河内一郎
昭和五十年一月発行 「蕗のとう」 著・大河内一郎
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