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投稿:2018年10月24日更新:2022年12月06日

いわき医療偉人

429. この道をゆく・大河内一郎伝記④~ついに「開園式」

大きな善意を受けた医師・大河内一郎氏(享年79)はついに、いわき市平(当時の平市)に北海道・東北地方初の肢体不自由児施設「福島整肢療護園」を誕生させ開園式を迎える。ある博士から「個人では不可能」と断言されていた男は、長い月日を経て可能にしてみせた。恵まれた設備環境とは言い難い中でも子どもを愛する職員と力を合わせ、青年時代から思い描いた夢の施設で医療と教育の実践をスタートさせる。「いわきの福祉の父」と呼ばれた大河内氏の生涯を振り返る不定期連載の4回目。(「地域連携・企画広報課」・西山将弘)

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↑いわき福音協会に飾られている「開園式」の写真

● 反発から18年
大河内氏は都内の病院に勤務していた29歳の秋―。ドイツの肢体不自由児施設の視察から帰国したばかりの博士・竹沢貞女氏と会う機会に恵まれた。東京大学の赤門前。黄色に包まれたイチョウ並木の歩道を歩きながら、肢体不自由児施設建設の夢を大いに語った。すると竹沢氏は言った。「それは個人では不可能な仕事です。あなたに大財閥でも背景にない限りは」。閉口した大河内氏は心の中ではっきりとこう反発した。「それなら一文無しでもやってみせる」。それから18年後。1952(昭和27)年10月12日、ついに「福島整肢療護園」の開園式を迎えた。

● 声を詰まらせて謝辞
開園を祝うように、式当日は秋晴れだった。大河内氏の目に、澄んだ青空の下に輝く療護園の園舎がまぶしく映った。来賓が次々と丘を登ってくる。心はそわそわして落ち着かない。198坪の園舎内の中廊下に設けられた式場は来賓で埋め尽くされた。午後1時半に始まった式の終盤、大河内氏は来賓を前に登壇した。青年時代からの夢を実現させるまでの思い出が走馬灯のように巡り、感動で何度も声を詰まらせ謝辞を述べた。讃美歌の合唱後に事務長、医務部長の医師、看護師2人、保育士2人、小学校教員資格を持つ児童指導員の全職員7人が紹介され、開園の決意を新たにした。

いわき民報記事昭和27年10月9日 (617x447)

↑開園式を前に療護園の完成を伝える地元紙「いわき民報」記事=1952年10月9日付(いわき市立図書館ホームページ内の「郷土資料のページ」(http://library.city.iwaki.fukushima.jp/manage/archive/upload/00000_20130118_1905.pdf)より

● 入園児を迎えて興奮
だが華々しく開園を飾ったものの、一向に入園児は訪れなかった。焦りの日々が続いたがついに8日目。丘を登ってくる親子の姿を見つけた事務長の叫び声が園内に響いた。「入園の子が来たぞ!」。全職員がすぐさま玄関に飛び出した。父親に手を引かれ、足を引きずる脳性まひの子が歩いてきた。「いらっしゃい!」と職員勢ぞろいで頭を下げるお出迎えに、親子はあっけにとられて立ちすくんだという。大河内氏は「たった一人の入園児のために、その夜の料理は何にしようと、全員で評議したのは、今にすれば滑稽であるがなつかしい思い出である」(昭和三十九年十月「光の丘の子どもたち」)とその興奮を回想している。この年の年末までには入園児13人が集まった。

● 一日の生活
一日の生活はこうだ。午前6時、当直職員が起床の音楽を流す。便器の使用法を指導し、排便後の始末も見届ける。自信を身に着けさせるためできるだけ床上げは子ども自身でやらせていた。競争心をあおって着衣訓練させ、歯みがきも職員の動作に興味を持って真似するように試みた。起床から30分後にラジオ体操させ、手足訓練を兼ねて児童に清掃もさせる。朝食後、午前8時から聖書の講話、同8時半から学習指導や治療をします。昼食を挟んで午後2時50分に授業と治療が終了。おやつ後は、入浴、洗髪、下着の取り換え、着物の着脱、起立、歩行といった機能訓練をサポート。同5時の夕食後、授業の予習・復習させ、レクリエーションも。排尿、着替えなど寝る準備をさせて同9時に消灯していた。

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↑開園して園舎の前で撮影する大河内氏(中央)ら (「光の丘の子どもたち」掲載写真)

● 不十分だった設備と人手
設備も人手も十分ではなかった。診療所程度の医療器具で、手術用の照明や手術台は中古。機能訓練室は講堂を兼ねた中廊下を利用し、訓練用具は大工が作った歩行用のはしごと輪投げ、ボールぐらい。看護師は保育業務や機能訓練も指導し、手術があれば助手も。児童指導員は一人で生活指導とともに小学一年から中学三年までの勉強も教えた。時には事務長も医療助手を務めた。炊事は看護師、保育士、児童指導員が交代で担当。夜になり児童が寝ると、お茶を飲みながら職員で話し合いが始まる。児童の問題行動を見つけたら改善策を考え、排便のできない児童の議論をしては何度も便器を作り変えたこともあった。

● 子どもを愛する献身的な職員
機能訓練士の制度も参考書も体系づけられた訓練法もない時代。機能訓練士を兼ねた看護師が子ども一人一人の生活や性格を観察し、訓練法を考えていった。保育士は知恵を働かせ、日常動作を機能訓練に結びつけた工夫も。「子どもを愛し、子どもを中心に考えつつ、自分の給料がいくらもらえるかも知らないで働いた当時の職員の真摯な態度は、どこの国にも劣らない美しいグループ」(昭和三十九年十月「光の丘の子どもたち」)。環境が十分ではないながらも献身的に汗を流した職員を、大河内氏はそうたたえていた。

<つづく>

【参考文献】
昭和三十九年十月発行 「光の丘の子どもたち」 著・大河内一郎
平成十二年十一月 「いわき福音協会五十周年記念誌いわき福音」 発行・いわき福音協会

【この道をゆくバックナンバー】

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