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投稿:2018年09月01日更新:2022年12月06日

いわき医療偉人

391. この道をゆく・大河内一郎氏伝記①~「子どもたちのために生きる」

障がい児支援に今以上見向きもされていなかった終戦間もない時代。太平洋戦争の激戦地から生還した医師・大河内一郎氏(享年79)は、荒廃した故郷・いわき市平(当時の平市)に医療と教育を結びつけた障がい福祉施設の設立に向け立ち上がった。「子どもたちのために生きる」。建設費の当てがないまま借金を背負い、陰口をたたかれながらも資金調達に奔走し、それでも目標に向かって突き進んだ。地道な募金活動は大きな支援に結びつき、ついに東北・北海道初の民設民営の肢体不自由児施設として「福島整肢療護園」が生まれた。先駆的な発想と底なしの情熱を持った「人間機関車」は、障がい児者支援の道なき道を切り開いていった。「いわきの福祉の父」と称される大河内氏の生涯に迫った不定期連載の1回目。(「地域連携・企画広報課」・西山将弘)

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↑開園2年目の福島整枝療護園。前列の石段に座っている大河内氏=1953年7月(「光の丘の子どもたち」掲載写真)

● 「光の丘」の今
いわき市平上平窪にある「光の丘」。大河内氏がそう呼んだ丘を上ると、坂道の先に「りょうごえん」という小さな看板が見えた。そこに二階建ての「福島整枝療護園」が建っている。8月のある蒸し暑い午後。青空にエメラルドグリーンの屋根が映える。療護園から出てきた幼児と母親は手をつないで帰っていく。園内に入る。行事案内やアニメキャラクターが壁やドアに張られた廊下。中学生ぐらいか、車いすに乗った脚の不自由な子が父親に押されて通り過ぎる。天窓から光が降り注ぐリハビリ室。女児が母親に見守られながら医師の診察を受け、リハビリが始まると笑い声が聞こえた。開園から65年。当初の療護園は改築され、周辺にはほかの障がい施設が建ち並ぶ。開園当時の面影はないだろう。だが大河内氏が築き上げた「療護園」は、今も変わらず障がい児に手を差し伸べている。

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↑およそ半世紀前に改築された現在の「福島整枝療護園」=2018年8月30日

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↑「福島整枝療護園」のリハビリ室で子どもたちが診察やリハビリを受けていた=2018年8月30日

● 幼少、青年期
大河内氏は1905(明治三十八)年11月、茨城県鹿島町に長男として生まれた。2歳のころにいわき市平(当時の平町)に転居。磐城中学校(現在の磐城高校)の武道教師だった父に厳しく育てられる一方、家の外では悪ガキの劣等生だった。小学校高学年で改心して勉学に励み、磐城中学校に入学するとトップクラスの成績を収めた。そのころ街中でキリスト教の説教を受けて教会に通うようになった。大学受験に失敗して予備校に通うため上京し、熱心なキリスト教徒だった「いとこ」の家にいそうろうする。両親の猛烈な反対を押し切って大阪の神学校に入学するが、信仰の熱さゆえに教師とぶつかり3カ月で退学。あらためて医学の道をめざして日本医科大に入学して医師になった。

● 結婚し、妻に語った夢
東京都内の病院で勤務する3年の間、27歳でタニコさんと結婚する。この時すでに妻にこう夢を語っていた。「いつかは医学と教育を結びつける仕事がしたい。百町歩位の原野を手に入れて、自給自足の病院を創(はじ)めたい。 ~中略~ 治療しつつ学ぶ、ミッション・ホスピタルスクールを創めたいんだ」(2000年11月『いわき福音協会五十周年記念誌いわき福音』)。この夢は大学時代に読んだ教育学者の小原国芳(おばらくによし)氏の著書「理想の学校」に刺激を受けふくらんでいった。帰郷し1934(昭和九)年10月、大河内医院(整形外科)を開業した。

● フィリピンの空の下での誓い
太平洋戦争中の1944(昭和十九)年5月、軍医として応召(おうしょう)しフィリピンに発つ。戦況が悪化し敗走に敗走を重ね、気の合った戦友も自決した。幼虫や雑草、木の芯などを食べて過ごし、ルソン島の奥地で一人生き残った。米軍機がまいたビラで日本の降伏を知り、ポツダム宣言文を繰り返し読んだ。「何もかもやり直しだ」。眠りから覚めて夜が明けると、目の前に強烈な光に波打つ草原が広がっていた。「明日の日本は子どもたちの手の中にある。私の生きる道は、子どもたちのために生きる以外にない」。どこまでも広がる晴れ渡ったフィリピンの空に向かい、両手を高く伸ばした。大河内氏はこの時、子どもに生涯を捧げる決意をした。2年間の捕虜生活後、1947(昭和二十二)年に再びいわきの地を踏んだ。

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↑天窓から優しい光が降り注ぐリハビリ室=2018年8月30日

● 荒廃した故郷 ついに行動
久しぶりに見た戦後のいわきは闇買いや暴力が横行し、通りには浮浪児や娼婦が歩いていた。故郷の退廃に危機感を募らせた大河内氏は、平キリスト教青年会を結成して会長となった。日中は診療し、夜は聖書の講義をした。だが「実践のない信仰も思想運動も無価値」と大河内氏はついに行動に移す。「社会福祉事業を興す」と地方新聞「いわき民報」で発表。潤沢な資金もあてもない。あるのは「医学と教育を結びつける肢体不自由児の施設建設」という青年時代の夢と、「子どものために生きる」という意志。情熱を燃やす「人間機関車」はここからその実現に向けて道なき道を突っ走る。

(続く)

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↑大河内一郎氏(「大河内一郎追悼記念 ただ障がい児者の友として」掲載写真)

【参考文献】
昭和三十九年十月発行 「光の丘の子どもたち」 著・大河内一郎
昭和五十年一月発行 「蕗のとう」 著・大河内一郎
昭和六十一年六月発行 「大河内一郎追悼記念 ただ障がい児者の友として」 発行・社会福祉法人いわき福音協会
平成十二年十一月発行 「いわき福音協会五十周年記念誌 いわき福音」 発行・社会福祉法人いわき福音協会

<感謝>
今春、ある方から「大河内先生の記事を書いてほしい。この方がいなかったら今のいわきの福祉はない」という熱い声を受け、関連著書を拝読して記事の準備を進めてきました。福島整枝療護園の関係者にも色々とお世話になっております。大河内氏が亡くなって33年が過ぎ、直接交流のあった方も少なくなりました。今あらためて「いわきの福祉の父」をお伝えすることで、誇りのようなものが生まれてくれればと願っています。記事にさせていただきますこと、関係者の方々に心より御礼申し上げます。

【ホームページ】
<福島整枝療護園>
http://www.ryogoen.jp/

<社会福祉法人いわき福音協会>
http://i-fukuin.com/

【この道をゆくバックナンバー】

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