障がいを抱えた女児の13年の生涯に寄り添ってきた医師だからこそつづれたメロディーがあります。いわき市の吉原康医師(58)=福島整肢療護園=は、家族からの「せめて食事ができるように」という切なる望みをかなえ、支え続けてきました。女児の7回忌を迎えた今春、参列できなかった代わりに吉原医師は女児をモチーフにした曲を捧げました。「(娘の)イメージ通り。笑い声が聴こえる」と目を細める母親は、そのメロディーを聴いて愛娘の笑顔を思い出しています。
● 望みに応えて食事管理
女児が産声を上げたのは2000(平成十二)年2月。その時すでに脳に重い障がいがありました。その後すぐ紹介されたのが吉原医師でした。ほかの医師からは安全面の考えから経管栄養を勧められていましたが「人生で一つでも二つでも楽しい事を味わってほしい」と願う母親は、自分で食事させたいと強く要望。吉原医師はその望みをかなえようとサポートしました。最小限の量で必要最低限の栄養が摂れる軟らかい食事を考え、お年寄り向けの介護食やプリン、ヨーグルトなどを試行錯誤。電卓をたたいて細かく栄養・食事量を管理しました。次第に食べられる量が増え、最終的に女児は細かくした刺身も食べられるようになったといいます。一緒に食事を楽しめた日々は親子の大切な思い出になりました。
↑障がいを抱えた女児の13年の生涯に寄り添い、曲を贈った吉原医師(右)。女児の母親と話し当時を振り返る
● 延命か、家族の望みか
母親は次々と思い出します。吉原医師が採血する際、緊張する女児に童謡「ぞうさん」を歌ったり、療護園のピアノでクリスマスソングを弾いてくれたり。女児が12歳で救急搬送された時には、多くの医師から入院を迫られたといいます。病室でたくさんの管につながれるのを望まない家族は在宅生活を希望。延命か、家族の望みか―。最終的に意見を求められた吉原医師は「責任を持つ」と家族の想いを支持。関係者から自宅では長く生きられないのではと懸念されていた中、吉原医師の献身的な訪問診療で女児は長い時間を自宅で家族と過ごします。入院を断ってから1年が過ぎた3月のよく晴れた日。女児は自宅で母親に抱かれ天国に旅立っていきました。当時を振り返る母親は「(吉原医師には)病気ではなく、本人や家族の生活や想いを診てもらった」と感謝し、優しい表情を浮かべました。
● 女児の「笑顔」 メロディーに込める
女児の7回忌を迎えた今春。参列できなかった吉原医師は4歳から続けてきた趣味の音楽を生かし、女児を表現した曲のプレゼントを提案しました。快諾した母親から、イメージをふくらますための詩を受け取りました。タイトルは「笑顔」。笑う事もできないだろうと出生時に告げられていた女児が初めて笑ったのは、母親が育児に限界を感じ絶望した日でした。「笑顔」は母親にとって希望の光。吉原医師は「最初は天使のような愛らしいワルツをつくろうと思っていたが、詩を読んで苦しみを乗り越えて天国に凱旋するようなイメージがわいた」と作曲。13年間寄り添ってきたからこそ浮かび上がる、女児と母親のストーリーを五線紙につむぎます。電子ピアノの優しい音色に鳥の鳴き声や鐘の音を重ねた2分半の安らかなメロディーを完成させました。
● 「笑顔」を聴きながら愛娘を想う母
曲を聴いた母親は「(娘が)ケラケラ笑っているよう。明るい曲調でも荘厳さも含まれていて、人生の重みを感じさせてくれる。これは吉原先生でないとつくれない」と語ります。「悲しむと娘に『ごめんね、先に亡くなって』と悲しませてしまう。そうさせないためにも笑顔で一生懸命に生きたい」。母親は毎週末、女児が愛読していた絵本「あなたのことがだーいすき」を朗読。BGMには「笑顔」が流れています。
【「笑顔」の曲(「笑顔」の文字をクリックしてYou tubeページに飛ばれますと母親が愛娘を想ってつづった詩も閲覧できます】
【吉原医師の所属する福島整肢療護園を創設した大河内一郎氏の伝記】
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