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投稿:2018年09月12日更新:2022年12月06日

いわき医療偉人

398. この道をゆく・大河内一郎氏伝記②~始まった夢への挑戦

いわき市平(当時の平市)に肢体不自由児施設「福島整肢療護園」を建設する挑戦が始まった。医師・大河内一郎氏(享年79)は、地元新聞で社会福祉事業の立ち上げを発表。協力者はすぐに現れた。土地探しに明け暮れ、建設地となる「光の丘」をついに見つけ、支援を受けるため平市長への直談判に挑む―。「いわきの福祉の父」・大河内氏の功績を振り返る不定期連載の2回目。(「地域連携・企画広報課」・西山将弘)

設立時の療護園(ただ障がい児者の) (2)
↑創立時の「福島整枝療護園」(「大河内一郎追悼記念 ただ障がい児者の友として」掲載写真)

● 土地の寄贈 保育園が誕生
大河内氏は1949(昭和二十四)年、地方新聞「いわき民報」で「社会福祉事業を始める」と発表した。その数日後に中学時代の剣道教師だった小野寛美氏が訪れ、アメリカに住む小野氏のおじ・坂本儀助氏から郷里の土地を寄贈したいという申し出が伝えられた。大河内氏の意志を伝え聞いた坂本氏が、郷里の父祖の土地を公共のために使ってほしいという思いからだった。その土地は、いわき市内郷小島町作田(当時の内郷市小島町作田)の土地480坪。大河内氏は1949(昭和二十四)年9月、小野氏とともに社会福祉事業に取り掛かった。社会事業の先進例を学ぶなどし、1950(昭和二十五)年6月、財団法人いわき福音協会の設立が県から認められた。「聖書的信仰にもとづいて児童青少年の福祉事業をなすを目的とする」という定款を掲げ、事業目的は保育園と肢体不自由児施設の経営。キリスト教徒だった坂本氏が同胞に協力を求めて集めた募金額121万円が送金され、小島保育園の母体となる小島公民館が着工された。初代園長は小野氏が務め、大河内氏は肢体不自由児施設の建設に本腰を入れる。

保育園 (640x371)
↑小島記念館前(現保育園)にて=昭和26年(「大河内一郎追悼記念 ただ障がい児者の友として」掲載写真)

● 「自力で完成させる」
まず大河内氏は「肢体不自由児施設」の計画書を坂本氏に送って協力を呼び掛けた。だが公民館建設で手いっぱいだと反対された。その返信の手紙を読みながら安易に善意に依存した自身を「情けない」と恥じた。「自力で完成させる」。大河内氏は動いた。補助金申請のために厚生省(現在の厚生労働省)に行っては却下された。施設の設立趣旨書を1000枚印刷して全国のキリスト教団体などに発送したが、それも大きな成果は出なかった。資金調達に見通しが立たないまま、並行して建設敷地探しも進める。毎日診療後、1万坪以上の土地を求め、鎌田山、谷川瀬山、赤井嶽山麓、二つ箭山などを歩き回った。

● ついに見つけた「光の丘」
転機は訪れた。平市会議員を務めていた中学時代の同窓生・江尻忠平氏が、平窪に原野があると紹介してきた。すぐに大河内は視察に飛んだ。戦時中に軍馬の鍛錬馬場だった1万2000坪の市有地は「低い松林に囲まれた丘陵になって、一面にすすきの穂が銀色に波うっていた。遠い阿武隈山系の支脈がいくつも起伏して丘陵をゆったり抱いていた」(昭和三十九年十月「光の丘の子どもたち」)。一望した大河内氏は心の中で叫んだ。「ああこの地こそ、神の与え給うた恩恵の地だ」。

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↑若かりしころの大河内氏(志賀高原)=昭和15年(「大河内一郎追悼記念 ただ障がい児者の友として」掲載写真)

● 平市長に直談判 資金の見通し「ある」
平窪の土地を受けようと、江尻氏の仲介で当時の平市長・鈴木辰三郎氏に直談判する。市長室に招かれ、大河内氏は熱いプレゼンテーションを繰り広げた。肢体不自由児施設、保母、看護師養成の短期大学、職業補導所を持つ総合福祉センターの構想を描いた図面を広げ、大いに夢を語った。資金の見通しを問われた時。「半分は海外から集め、半分はわれわれがつくります」と訴えると、鈴木氏からすぐさま「見込みがあるのケエ」と切り返された。「あります!」。大河内氏は自信ありげにそう答えた。だが実際はまったく見込みはなく、断固として実行すれば何とかなるという信念だけだった。疑いの目を向ける鈴木氏に「クリスチャンは嘘を言いません」と食らいついた。一瞬の沈黙。鈴木氏は大河内氏の父の話題にそらした。中学時代の武術教師が大河内氏の父だったと知った鈴木氏は、しばらく考えてこう言った。「よし分かった」。翌月の1950(昭和二十五)年12月、市議会でその土地をいわき福音協会に無償貸与(5年後に無償提供)することが決まった。

建つ前の敷地 (640x402)
↑軍馬の鍛錬場だった療護園が建つ前の原野(「光の丘の子どもたち」掲載写真)

● 資金の見通し無いままサイン
天の助けは続いた。ある建設業者から「社会事業ですから私は仕事で奉仕しましょう。金は先生ができた時に払ってくださればよいですよ」と勧められた。感激した大河内氏は637万1230円の総工費を要する契約書にサイン。先払いで貯金全額の120万円を投じた。残りの資産は100坪に満たない診療所と医療機器だけになった。法人の金はゼロ。資金づくりの計画もないまま、起工式が1951(昭和二十六)年1月に行われた。全責任を負った大河内氏は借金地獄に落ちていく。

(つづく)

【参考文献】
昭和三十九年十月発行 「光の丘の子どもたち」 著・大河内一郎
昭和五十年一月発行 「蕗のとう」 著・大河内一郎
昭和六十一年六月発行 「大河内一郎追悼記念 ただ障がい児者の友として」 編集・社会福祉法人いわき福音協会

【この道をゆくバックナンバー】

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